ドイツの挑戦 2

エアハルトは強固な信念とリーダー・シップのもと、それまで残っていた国家による経済統制を次々に撤廃していきました。


米軍ははじめ、「経済統制の緩和は認めない」といっていましたが、エアハルトがそれに対し


「緩和はしない。全部撤廃するのだ」


・・・と答えてからは、むしろエアハルトの市場経済政策を支持するようになったといいます。


西ドイツの経済復興は、マーシャル・プランによる経済援助と通貨改革の成功によって離陸しました。


市場経済政策は、1948年、通貨改革と同時にセットで行われました。


・・・というより、通貨改革は市場経済という大原則を確立するための1つの前提条件だったのです。


なぜなら自由競争に委ねられた経済が健全に運営されるためには通貨の安定が不可欠だからです。


エアハルトはまず価格統制を撤廃することから始めました。


工業完成品、続いて鉄・石炭・石油などの基礎物資、さらに食料品と、国家による配給や統制は次々に撤廃されました。


さらにエアハルトは貿易を自由化。


輸出、輸入に対する国家の統制をやめたのです。

ドイツの挑戦

それらの違いは結局のところ、第一次世界大戦後の破滅的インフレを経験している西ドイツが、その歴史の教訓を生かし、いかなる妥協も許さない断固たる姿勢で臨んだのに対し、日本にはその経験も覚悟もなかった、その違いだという人もいます。


いずれにしても、通貨改革という最初の分岐点で、戦後の日本と西ドイツ経済の道は2つに分かれました。


その後2つの道はそれぞれどこへ続いていくのでしょうか。


次にそれを検証してみることにしましょう。


「統制の緩和はしない。全部撤廃するのだ」


・・・生産設備の戦争による破壊度の低さ、マーシャル・プランによる経済援助、通貨改革の成功西ドイツの経済復興のための条件は着々と整っていきました。


そしてそれをさらに確かなものにしたもう1つの要素がありました。


「市場経済」原則の導入です。


市場経済原則とは、あらゆる経済活動を完全な自由競争に委ねる経済政策で、自由経済原則とも呼ばれるものです。


これは、第二次大戦中の国家による厳しい経済統制をすべて撤廃することを意味していました。


この政策は、フライブルク学派とよばれる人々が主張したものでしたが、その頂点にいたのが、当時経済長官として経済政策の責任者の地位にあり、のちに首相となるエアハルトでした。

2つの戦後が道を分けた

西ドイツの通貨改革は、日本とは対照的に企業に対する何らの特別措置も伴わず遂行されています。


逆にいえば、西ドイツの企業がそれに耐えうる差し当たっての体力を備えていたということになり、ここでも日本と西ドイツの、戦争による破壊度という初期条件の差がまたしても顔を出すことになります。


そして、まさにそこから、日本の「企業中心の政策」という、現在に至る体質の萌芽が1つの不幸な形で表れているといえるのではないでしょうか。


日本と西ドイツの通貨改革については、これらの他にもいくつかの相違点があげられています。


「預金封鎖」が、日本の場合、多くの例外規定によって完全な「封鎖」とならず、購売力が市場に流出したのに対し、西ドイツは「封鎖」がその効果を全うしたこと。


また、「通貨の番人」と呼ばれるように、インフレ抑制に最大のノウハウを有する中央銀行・・・


日本では日本銀行、西ドイツではレンダーバンク(ドイツ諸州銀行。1957年にブンデスバンク=ドイツ連邦銀行に改組)がそれに当たります。


この発言力が、行政機構上、日本では小さく、西ドイツでは大きかったことなどです。

ロックンロールの名付け親 12

1954年、時代の流れを感じ取りロックンロール・ステーションへと生まれ変わったニューヨークのWINS局は、フリードをメインのDJとして迎え入れました。

WINSは数カ月のうちに全米でトップのAM局へとのしあがります。

しわがれた声。猛烈な早口。

ただ最新のR&Bヒットをかけるだけでなく、放送中にゴルフの手袋をして手元の電話帳をドンドン叩きながらリズムをとったり、カウベルを鳴らしたり、一緒に歌ったり。

フリードはそんな独自の荒々しいスタイルを駆使しつつ、それまではあくまでも傍流でしかなかったR&B系の音楽を時代のメインストリームへと送り込んだのでした。

このとき、白人DJと黒人ミュージシャンとがはじめて躍動的に合体したと言えます。石塚孝一氏によると、R&Bアーティストと強く連帯することでフリードは強力なラジオ番組を制作することができたし、一方アーティストの側はフリードの意見を仰ぐことでより有名になり、50年代を通じてロックンロールは多くの金を集めることが出来るようになりました。

ロックンロールの名付け親 11

「ロックンロール」という耳慣れない新語を使ってはいたものの、実際にかける曲は黒人のR&Bばかり。

おかげでフリードは"ニガー・ラヴァー"などと呼ばれ、白人の良識派からかなりの反発を受けたらしいです。

しかし、前述したように若い白人リスナーは彼を熱狂的に支持。

フリードのスタイルをあからさまに真似た白人DJも続々登場した。のちにエルヴィス・プレスリーのデビュー・シングルをはじめてオンエアしたDJとして名を残すことになるメンフィスのデューイ・フイリップスをはじめ、ロサンゼルスのハンター・バンコック、ナッシュヴィルのジーン・ノーブルズ、ニューオリンズのポッパ・ストッパ、そしてテキサス/メキシコ国境付近の海賊放送局で人気を博していた"ウルフマン・ジャック"ことボブ・スミスなどなど・・・。

ロックンロールという新たな呼び名を与えられた黒人のR&Bは、彼らのエネルギッシュな語りとともに全米の白人の若者へと広まっていきました。

ロックンロールの名付け親 10

古くから黒人の社会内で育まれてきたブルースを最新のエレクトリック技術でアンプリファイズした音楽とは、リズム&ブルース。

けれども、それはほとんど黒人のコミュニティの中だけで流通するのみにとどまっていました。

アラン・フリードがレコード店で見かけた白人の若者たちは確かにこうしたR&Bに耳を傾けていましたが、それもまだまだ一部。

ビートをもう一度音楽シーンの最前線に取り戻し、欲求不満を覚える若者たちを巻き込むためには、黒人社会の中でとどまっていた素晴らしい鉱脈を、全米に向けて掘り起こす存在が必要でした。

その役割を、意識的にか、あるいは無意識のうちにか、買って出たのがアラン・フリード。

もちろん、フリードがR&Bをラジオでオンエアした最初のDJというわけじゃないです。

フリード以前にもR&BをかけるDJはたくさんいました。

シュリーヴポートのプロフェッサー・パップ、アトランタのジョッキー・ジャック・ギブソン、バーミンガムのシュガー・ダディなどなど。

彼らはすでにR&Bをオンエアする番組を各地で担当していました。

が、彼らはすべて黒人DJ。聴衆も黒人。

プリードは白人のDJとして白人のリスナーに向けてR&Bをかけまくった最初の男なんです。

ここに大きな功績があります。

ロックンロールの名付け親 9

踊るためのブギウギ・ピアノが時代遅れとなり、新しいジャズμビ・パップの時代が到来するとともに、バンドの中からステディなビートを刻む楽器が姿を消しました。

ビートをキープしているのは、シンバルを軽く叩きつづけるドラマーの左手のみ。

それまでは確実に一小節に四つのビートを打ち出していたべース・ドラムなど、時折、ソロ楽器に呼応してアクセント的に叩かれるだけだったし、豊かな低音部を補強していたピアニストの左手も、もはや着実なべース・ランニングを聞かせることはなくなっていました。

しかし、誰もが身体で音楽を聞くことを忘れたわけじゃなかったんです。

ミュージシャンたちが高度な欲求を満たすためどんどん頭でっかちになっていく一方で、頭でではなく、あくまでも身体で音楽を聞きたい、ビートを感じたいと願う若者たちは当然欲求不満を覚えていました。

もちろん同時に、アメリカの中にはまだまだビートを忘れることのない、よりプリミティヴなダンスこミュージックが根強く生きつづけていました。

ロックンロールの名付け親 8

余談になりますが、ロックンロールの爆発と密接な関わりをもつ映画『暴力教室』の原作となった小説を書いたエヴァン・ハンターの著書に『黄金の街』というのがあります。

主人公はニューヨークに暮らす盲目のイタリア系少年。

ジャズ・ピアニストを目指して、40年代の半ば、ジャズの"黄金のストリート"として知られるニューヨーク52丁目のクラブへと赴き、野望に燃えながら他のミュージシャンと初セッションを行なうというシーンがありました。

少年が抜群のテクニックを駆使して、左手による強烈なべース・ランニングを伴ったブギウギ・ピアノを得意げに聞かせた直後、共演したプレイヤーたちは苦笑いを浮かべながらこう言います。

「坊や、もう世界は変わったのさ。今じゃそんな左手のプレイをしてるやつはダサイんだぜ。バド・パウエルを聞きな」

記憶があいまいで、一字一句この通りではないですが、だいたいそんな趣旨の言葉でした。

とても印象的なシーンだったので覚えています。

ロックンロールの名付け親 7

少々話は前後しますが・・

マーチの王様として知られるスーザが残した言葉に、「人々が頭ではなく足を通して聞く限り、ジャズは生き残っていく」というような主旨のものがあるそうです。

そう、ロックンロール以前の音楽シーンの中心をになっていたジャズにしても、もともとは身体で楽しむための音楽、ダンスこミュージックでした。

ニューオリンズ周辺で爆発したホンキー・トンクにせよ、フォー・ビートを基調にしたビッグ・バンド・スウィングにせよ。

だからこそ、広く人々に愛されていきました。

けれども、1945年、第二次大戦が終わるころから、ジャズは徐々に複雑なものへと変わっていきます。

バド・パウエル、チャーリー・パーカー、デイジー・ガレスピーといった意識的なジャズ・ミュージシャンたちが革新的な方法論を提示したのをキッカケに、ジャズには複雑なハーモニーや、難解なパッセージが必要不可欠なものになり始めました。

ビー・パップ、あるいはクール。

ジャズにそうした方法論が取り込まれたときから、踊るための音楽から、耳で、頭で聞くための音楽へとジャズは変質します。

ロックンロールの名付け親 6

ある日、その番組のスポンサーである地元一の大レコード店を訪れたフリードは、白人のティーンエイジャーたちが黒人のリズム&ブルース(R&B)のレコードを買っている光景を目撃します。

それをキッカケに自分の番組でより多くのR&Bをかける決心をし、1952年、番組タイトルを『ザ・ムーンドッグ・ロックンロール・ハウス・パーティ』と変更。

"リズム&ブルース"とうたわずに、わざわざ"ロックンロール"という新語を考案したのは、なんと、フリードの迷いが原因だったといいます。

自分の番組で黒人のレコードをかけることが果たして白人マーケットから好意的に受けとめてもらえるかどうか、フリードも最初のうちは自信が持てなかったようです。

そこで、当時アメリカ中のラジオ局からはじけだそうとしていた新しい音楽を、とりあえず「ロックンロール」と呼ぶことにしました。

が、やがて、その迷いも取り越し苦労だったことがわかります。

若い白人リスナーからの反応も良好。

ブリードの迷いから誕生した「ロックンロール」という言葉が、このときから一人歩きを始めます。