傾斜生産とは何か 4

しかしそれは、インフレ抑制という点では、全く矛盾した大盤振舞といわざるを得なかったのです。


つまり政府の経済統制は、インフレの抑制という根本的体質改善を置き去りにして、産業復興を優先させたのです。


その結果、インフレは進行しましたが、たしかに生産復興という点では着々と成果が上がりました。


昭和23年度の国民総生産の対前年度伸びは17・5パーセントで、これは戦後40年を通して最高の数字です。


それというのも傾斜生産方式のおかげでした。


先に述べたような物資と資金の重点的配分のほか、わずかながら輸入される重油もすべて鉄鋼に投入し、食糧・住宅・作業衣そしてビタミン剤にいたるまで炭鉱で働く労働者に対しては優先的に供給するという政策が報われたのです。


終戦から3年、昭和212年、1948年という時点で、このように日本と西ドイツは全く正反対の経済政策下にありました。


特定の産業を保護するために、モノとカネを国家が直接コントロールする「統制経済」と、そうした面での国家の介入を否定する「市場経済」です。

傾斜生産とは何か 3

石炭業の側からみれば、その借入総額の9割以上を復興金融金庫からの融資に依存するという「傾斜」ぶりでした。


第3に物価統制の面でも石炭と鉄鋼を優遇しました。


経済安定本部は公定価格、いわゆる「マル公」を定め、これを上回るヤミ値での取り引きを禁止しましたが、とくに石炭・鉄鋼をはじめ非鉄金属、肥料、ソーダなど産業復興に欠かせない基礎物資の公定価格は低くしました。


しかし、それはあくまでも消費者価格のことであり、これらの物資を生産する企業に対しては、消費者価格を上回る生産者価格を定め、その差額を国が「補給金」として支払い、企業の利潤を保証することにしたのです。


これは今の「米価」と全く同じ2重価格制度です。


そして、今「コメ」が政府の財政を圧迫しているのと同じように、この時も「補給金」の支払いが、政府支出の最大項目となり、財政を圧迫しました。


昭和23年度では鉄鋼向け補給金だけで、政府一般会計歳出総額のほぼ4割を占めています。


復興金融金庫の融資にしろ補給金にしろ、重点産業を何とか復興させようという政府の赤字覚悟の「親心」でした。


傾斜生産とは何か 2

まず第一に物資の統制面では次のような優先策がとられました。


生産資材は主務官庁(商工省・農林省・鉄道省など)から交付された割当証明書がなければ売買できないことにしました。


しかし、さらに経済安定本部は、生産資材が重要でない用途・・・


つまり石炭・鉄鋼の増産に役立つもの以外の用途に使用されるおそれのある場合には、主務官庁に対しその生産や使用を制限するよう指令することができました。


第二に資金の統制です。


金融機関の企業への融資額と融資先を厳しく規制し、最重点産業向けを最優先させ、それ以外の産業への融資は必要最少限にしました。


政府は「産業資金貸出優先順位表」をつくり、各産業の重要度に露骨な順位づけを行いました。


第一ランクには、傾斜生産の中心産業として、石炭・亜炭・製銑・製鋼・肥料製造業がおかれました。


その次に、金属鉱業・石油鉱業・石綿鉱業・綿織物・染色業などをランクし、その他の産業を第3ランクとしました。


さらに、絹糸製造業、金属家具製造業、化粧品製造業などについては、奢修的産業として最下位にランクし、冷遇しました。


また復興金融金庫の融資も、石炭と鉄鋼をはじめとする重点産業に集中させ、とくに石炭には、融資総額の3分の1を貸し出しました。

傾斜生産とは何か

国内に豊富に存在する唯一の資源である石炭資源の増産こそが生産力回復の鍵であり、ひいてはインフレ抑制の決め手になるというのです。


そこで政府は、従来の年21200万トンという出炭ペースを1挙に3000万トンに高めるという目標をかかげました。


そのために「政府の施策の中心を石炭におき、今後半年ないし1力年は石炭増産に必要な措置を他のあらゆる施策に優先せしめ、石炭超重点主義を実行する」と宣言しました。


これまで石炭の増産が進まなかった最大の原因はといえば、炭鉱設備に使われる鋼材が不足していたからでした。


鉄鋼の生産水準は戦前の10分の1にまで落ちていたのです。


ところが鉄鋼の増産にはもとより石炭の増産が不可欠です。


つまり、石炭と鉄鋼の増産には相互循環的な関係がありました。


こうして、国家によるあらゆる経済施策を、石炭・鉄鋼の増産に集中させる、いわゆる「傾斜生産方式」が強力に推進されることになったのです。


経済安定本部によるさまざまな経済統制は、結局、石炭と鉄鋼を最優先させるための統制にほかならなかったのです。

つけられた優先順位

経済安定本部は、現在の経済企画庁の前身に当たるものです。


しかし、単に経済政策の企画立案や役所間の調整というだけでなく、公共事業の編成や法令違反の摘発などの権限を持ち、今の経済企画庁とは比較にならぬ強力な官庁でした。


その下には実に15もの公団が相次いで設けられ、経済安定本部の補助機関として統制の実施に当たっていました。


15の公団とは、配給公団として、石油・配炭・肥料・食糧・食料品・飼料・油脂砂糖・酒類の8公団。


施設公団として、産業復興・船舶の2公団、貿易公団として、鉱工品・繊維・食糧・原材料の4公団。


・・・それに価格調整公団です。


経済安定本部を中心に実施された経済統制は、物資の割り当てないし配給制度、公定価格の設定、金融機関の融資規制、輸出入の国家管理と、幅広い分野に及びました。


そしてこれらの統制の中から、1つの際立った政策が浮かび上がってきました。


それは「国のためになる特定の産業に、集中的、重点的に国家の保護、優遇策を与える」というものです。


この場合、「特定の産業」とは、石炭と鉄鋼でした。


当時、日本の工業生産がなかなか拡大しない最大の原因は石炭の不足であると考えられていたのです。

日本政府の迷い

統制諸法令違反として取り締まりを受けた者の数は、たとえば昭和13年7月から14年10月までの間だけでも全国で225万人にのぼり、これは当時の内地人口の3パーセントをこえていました。


このように矛盾に満ち、また国民に不信を抱かせた経済統制は、終戦後、政策立案者たちに深刻な反省を強いるものとなりました。


行政官庁には、もうニ度と統制は御免だ、という空気が広がっていました。


それに加えて、統制は占領軍の推進する「民主化」に逆行するものだという考え方も根強かったのです。


終戦直後、政府には、再び経済統制にもどる意志はなく、食糧不足のさなか、昭和20年秋には一時、魚や野菜の統制を撤廃するなどしました。


しかし、その結果はどうだったでしょう。


・・・食糧不足はますます深刻化し、インフレもさらにエスカレートしました。


戦争の痛手はあまりにも大きく、日本経済が落ち込んだ谷は、自力ではい上がるには深すぎたのです。


こうして政府が終戦からほぼ1年間、統制による復興策をとることをためらったことは全く裏目に出、日本経済の混迷を一層助長することになってしまいました。


昭和21年2月の通貨改革を含む経済危機緊急対策が十分な効果を上げなかったことは、日本経済の危機がなみたいていのものではないことを政府に認識させました。


そしてついに昭和21年8月、のちに「泣く子も黙る安本」といわれた強力な統制機関、経済安定本部が設立されました。


統制経済という、西ドイツの市場経済とは正反対の道がここに選択されたのです。

ふたたびの統制へ

こうして戦後復興期に確立された西ドイツの市場経済原則は、その後も徹底して続きました。


今日それは多少の修正を加えられながら、20世紀前半までの資本主義経済秩序とも、社会主義諸国のきびしい国家管理経済とも異なるものでした。


社会正義の限りにおいて保証された経済的自由という意味で、「社会的市場経済」と呼ばれています。


経済復興策を選択した西ドイツが市場経済の原則のもと、さまざまな経済の自由化を推し進めていた頃・・・


日本は全く対照的な道を歩み始めていました。


つまり、国家による強力な統制のもとでの経済復興策を選択したのです。


これより先、昭和12年に日中戦争が始まってから太平洋戦争終戦までの戦時の日本経済は、空前の統制下にありました。


「臨時資金調整法」「輸出入品等臨時措置法」「軍需工業動員法の適用に関する法律」「工業事業場管理令」「国家総動員法」「電力管理法」・・・


その他さまざまの価格統制、配給統制、使用制限を定めた法令が出され、「カラスの鳴かない日はあっても、統制法規の出されない日はない」と言われるほど、カネとモノの動きを国家が直接統制する体制が敷かれていました。


「統制は統制を呼ぶ」といわれるように、統制は、それをくぐりぬけてひともうけしようという業者たちとのイタチごっこを生み、ますます強力に、そして広範囲に広がっていきました。

「貿易の自由化」

貿易の自由化のもう1つの重要な側面は、「敗戦国」西ドイツが国際社会に復帰するきっかけとなったことでした。


イギリスやフランスをはじめとする西ヨーロッパ諸国を中心市場とする西ドイツにとって、これらの国々との協調なしに自国の経済発展はあり得ないことを西ドイツは強く意識。


1956年までに、西ヨーロッパ諸国に対する輸入自由化を100パーセント達成しました。


貿易の自由化と前後して、西ドイツは数多くの通商協定を自主的に締結し、周囲の西ヨーロッパ諸国との経済面での協調を図っていきました。


こうした中、1950年に創設されたEPU(欧州支払同盟)に参加を許されたことは、西ドイツの経済発展に、これもプラスに作用しました。


ドル融資に等しい機能をもつこの機関に参加できたことで、ドル不足を恐れずに輸入の自由化を貫くことができたのです。


EPU加盟直後、1951年2月の西ドイツの借入金は4億8000万ドルにのぼりました。


ところが、輸出が伸びた2年後の1953年4月には、逆に4億8000万ドルの債権を保有するに至っています。


このように市場経済政策の導入がもたらした西ドイツ経済への影響はよいことずくめでした。


もちろん西ドイツといえども市場経済の原則を完全に貫いたというわけではありません。


たとえば1950年からの朝鮮戦争の影響で商品価格が高騰し、石炭などの工業原料が不足し、貿易収支も悪化した時には、原料の割り当て制や、輸入規制といった経済統制がとられたこともありました。


しかし事態が好転すると統制は直ちに撤廃されました。

西ドイツの経済発展の原点

西ドイツの広範で徹底した市場経済政策の中で、その後の西ドイツ経済に最も重要な影響を及ぼしたのは貿易の自由化でした。


自由貿易とは、言い方を変えれば、輸出をどんどん増やすことに努めますが、だからといって輸入を制限するような事はせず、自国の市場も外国に開放しましょうということです。


しかしエアハルトの基本的な考え方は、「輸入を増やして相手国を豊かにし、購売力をつけさせることがやがて輸出の増加につながる」というもの。


現実に西ドイツの輸出額は、1948年から1952年の間に実に7倍に増えました。


もちろん輸入の自由化は当初西ドイツに入超(輸入超過)をもたらし、エアハルトは議会で激しい非難を浴びましたが、1951年からは黒字基調に転じ、エアハルトの理論の正しさが立証された形になりました。


輸入の自由化によって原料が豊富に供給されるようになって、西ドイツの工業生産の伸びは、さらに加速することになりました。


当初は国内市場が旺盛な購売力を持っていたこともあって輸出はそれほど増えなかったのですが、1951年ごろから消費財の輸出が急ピッチで伸びることになります。


中でも西ドイツの機械製品、とくに工作機械、圧力延鋼材、電気・光学製品、精密機械の優秀さはこの頃から早くも世界市場を制圧しはじめました。


これはやがて昭和40年代以降、日本製品によって取って代わられるまで続いていきます。

ドイツの挑戦 3

輸入の自由化は、復興を始めたばかりの西ドイツの国内産業にとってかなり厳しい事態を引き起こすことが予想されました。


しかし、エアハルトはそれに対し特別の保護政策を取ることはせず、各企業の合理化の努力に委ねました。


そうすることが結局は企業の競争力を強化することにつながるという考え方によったのです。


マーシャル・プランの援助が始まる一方で、通貨改革が成功し、市場経済原則が導入された1948年という年は、正に西ドイツ経済の爆発的成長の始まりの年となりました。


戦前の1936年を100としたときの鉱工業生産指数は1948年の54から、1953年には150と3倍に上昇しました。


わずか5年という短い期間内にこのような急激な経済発展を遂げた例はかつてなく、まわりの国から「奇跡の復興」と驚きの目で迎えられました。


生産・消費・物価・所得・雇用……あらゆる経済指標がことごとく好転しました。


一体なぜ、すべてがこうもうまくいったのでしょうか。


それは経済学者でも十分に説明できないことであるようです。


とりあえずよく語られているのは、通貨改革が断行され、市場経済原則が導入された1948年という時点で、西ドイツには、差し当たり十分な生産能力と購売力の殺到に応じうる在庫、マーシャル・プランの援助による原材料輸入増加の見通し・・・。


そして、消費者の消費意欲、企業家の投資意欲など、経済成長のための条件がすべてそろっていたという説明です。